お知らせ・店主ブログ

【ブログ】番外編・ご先祖さまのおはなし(その1)

こんにちは。八王子の日本茶専門店・網代園です。

お彼岸が明けたばかりということで、
今回は趣向を変え、網代家のご先祖さまについておはなししてみます。

番外編ですので、ぜひ気軽な気持ちでご覧ください。

 

 

江戸時代以前の日本茶

日本茶といえば、歴史や伝統といった言葉が思い浮かびますが
急須で淹れる煎茶が一般家庭に普及したのは、戦後のおはなし。

鎌倉時代以降、薬として大切に扱われた抹茶も
庶民に手が届くような値段ではありませんでした。

幕末の資料によれば、最高級の抹茶は現在の価格で 100g 40万円。
今では一般的な緑色のお茶(青製煎茶)も
当時は流通し始めたばかりで、100g 3,000円ほど。

下級武士の年収が200万円といわれた時代。
お茶はそれだけ貴重だったのですね。

 

 

明治時代の日本茶

明治になり、開国した日本に目をつけたのは欧米などの列強諸国。
アヘン戦争の混乱により、中国の茶輸出が停滞したため
日本のお茶に白羽の矢が立ったのです。

これにより、江戸末期まではわずかな生産量だったお茶は
生糸に次ぎ、総輸出量の20%以上を稼ぎ出すまでに成長。
開国後の日本経済を支えました。

ただ、当時は柿や桑の葉のような品が混じることがあり
政府は貴重な外貨獲得品である茶の品質を保持するため
各地で品評会を開き、製法を指導するようになります。

令和元年10月、『狭山茶どころ東村山』という展覧会が東村山ふるさと歴史館で行われ、
そこで展示された明治19年製茶品評会の賞状の審査員欄に
初代・網代五兵衛(あじろ ごへえ)の名がありました。

  

 

ご先祖さまの歴史

網代(あじろ)というと、静岡県伊豆半島の網代が有名ですが
我が家は現在の東京都あきる野市の網代から、明治20年ごろに八王子へ出てきました。

茶処・狭山のお茶はもともと、一旦東京に集めてから輸出されていましたが、
明治中ごろになると狭山から八王子を経由し、『絹の道』と呼ばれる街道を通って
横浜港へ運ばれるようになりました。

八茶』と呼ばれたこの茶の取り引きに、初代・五兵衛と
弟の二代目・政信(まさのぶ)が精を出しました。
港にアメリカ行きの船があれば大儲けですが、船がなければ三束三文で置いてきたという
ほとんど博打(ばくち)に近い商売だったようです。
今のように通信手段がない時代は、しかたがなかったのでしょう。

三代目・政次(まさじ)は、父・政信と輸出業に励みながら、狭山や静岡へ赴き
茶を仕入れては、店の裏にあった工場で火入れ(乾燥)を行ないました。
現代のような保存技術がないため、火入れによって風味を際立たせるとともに
茶葉の水分量を減らすことで長期保存できるようにしたのです。
店舗裏から茶工場までは、荷運び用のトロッコがあり
近所の子どもたちのよい遊び場になっていたそうです。

 

 

まとめ

網代園の昔話、いかがでしたか。

なんだかちょっぴり気恥ずかしい気持ちですが
機会があれば、また続きを書いてみたいと思っております。
そのときは、どうか温かい目でご笑覧いただけたら幸いです。

それでは皆さま、すてきなお茶時間を。