お知らせ・店主ブログ

【ブログ】茶の湯の歴史と文化のおはなし

こんにちは。八王子の日本茶専門店・網代園です。

11月は抹茶の旬、ということで
抹茶に関するブログを投稿したのがちょうど1年前。
身近なようで意外と知らない、抹茶のおはなし

今年は、このお抹茶と深い結びつきをもつ
茶の湯(茶道)の歴史と文化を振り返ってみたいと思います。

 

 

かつて茶の湯はギャンブルだった?

茶の湯といえばわびさび(質素で物静かな美意識)
というイメージをお持ちの方も多いかと思いますが、
南北朝~室町時代にかけての茶の湯文化は
今とは少々趣向が異なったようです。

茶が国内で栽培され始めるこのころ、
当然ながら、産地間で品質に大きな差がありました。

そこで、歴史的な由緒をもつ京都・栂尾(とがのお)産の茶を本茶(ほんちゃ)
それ以外の産地の茶を非茶(ひちゃ)とし、
双方を飲み当てる闘茶というゲームが、賭け事として好まれるように。
【ブログ】日本茶でゲーム?伝統文化・茶歌舞伎(ちゃかぶき)のおはなし

また、こうした交流の場には、唐物(からもの)・唐絵(からえ)といった
中国渡来の高価な茶器や絵画が飾られ、その豪華さまで競い合いました。

華美で娯楽性の高いものだった茶の湯が、
どのように移り変わっていくのでしょうか。

 

 

茶の湯を確立するのはどんな人物?

村田珠光(むらた じゅこう または しゅこう)
現代の侘び茶(わびちゃ)の祖といわれる人物です。

室町幕府8代将軍・足利義政の茶道師範を務めるとともに
とんちでおなじみの僧・一休宗純(いっきゅう そうじゅん)と交流し
ここで学んだ禅の思想を、茶の湯に取り入れました。

それまで主流だった書院の茶(広間で行う華やかな茶会)から
4畳半の質素な和室において、少人数で茶を喫する形を見出し
互いの精神的なつながりを重視するようになります。

この流れを継ぎ、侘び茶を発展させたのが
大阪・堺の商人であった武野紹鴎(たけの じょうおう)

珠光の孫弟子にあたる紹鴎は、
得意としていた和歌の心を茶の湯に活かします。
唐物から信楽・備前といった和風の茶器へあらためたり、
4畳半より更に小さい3畳半・2畳半の茶室を考案するなど
創意工夫により、新たな茶の湯の形を生み出しました。

彼が輩出した多くの茶人の中でも、最も有名なのは
やはり千利休(せんのりきゅう)でしょう。

無駄なものを極限までそぎ落とす「侘びの美」を突き詰め
ろくろを使わず手捏ね(てづくね)で成形する楽茶碗
国宝に指定されているわずか2畳の茶室・待庵など
彼独自のプロデュース作品を数多く残しました。

こうして茶の湯は、単に喫茶を目的とするものではなく
精神的な学び・追求を目指す道 = 茶道として成長を遂げ
今でも継承され続けています。

  

 

茶の湯(茶道)において大切な心構えとは?

最後に、利休が説いた四規七則(しきしちそく)をご紹介します。

四規とは、和敬清寂(わけいせいじゃく)の精神を指し
利休の茶道に対する考えを端的に表したもの。

 … 互いに和を重んじること(仲良くすること)
 … 人や自然、あらゆる万物に感謝し、敬うこと
 … 道具や心身を清らかにすること
 … 静かで、何事にも動じないこと

七則(利休七則とも)も、茶人の心得を説くもので
利休が弟子から茶の極意を問われた際に
答えた内容が元になったといわれています。

茶は服のよきように点て (飲む人にとってちょうど良い加減の茶を用意する)
炭は湯の沸くように置き (見栄えだけでなく、要点を見極める)
夏は涼しく冬は温かに  (その瞬間を心地よく過ごせるよう、季節感を演出する)
花は野にあるように   (むやみに飾り立てず、自然のままの姿を大切にする)
刻限は早めに      (時を大切に、心に余裕をもって茶会に臨む)
降らずとも雨の用意   (何事も臨機応変に対応できるよう、準備を怠らない)
相客に心せよ      (亭主と客だけでなく、客同士の心配りも忘れない)

 

 

まとめ

どうしても敷居が高い、堅苦しいという印象をもたれがちですが、
茶の湯(茶道)の精神は、日常生活や仕事の中で活かせるものが多くあります。
少しでも関心をもっていただけたら、嬉しい限りです。

それでは皆さま、すてきなお茶時間を。