お知らせ・コラム
番外編-ご先祖さまのハナシ

明治24年創業、八王子のお茶屋・網代園(あじろえん)です。
毎月、お茶に関するさまざまなテーマを扱っている本コラムですが
今回はお彼岸の時期にちなみ、網代園の昔ばなしをお届けします。
かつてお茶は、今のように身近なものではありませんでした。
日本を代表する輸出品として海外へ渡った時代があれば
戦争によって、店や暮らしが大きく変わった時代もあります。
ご先祖さまたちがどんな仕事をし、どんな暮らしをしてきたのか。
今の網代園につながるおはなしに、ちょっぴりお付き合いください。
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-目次-
1. かつて、お茶はどんな存在だった?
・ 日本経済を支えた〈 重要輸出品 〉
・ 絹の道を通って運ばれた〈 八茶 〉
2. 昔のお茶屋はどんな仕事をしていたの?
・ 風味と保存性を高める〈 火入れ 〉
・ 手づくりの〈 茶袋 〉
3. 戦争のなか、暮らしはどう変わった?
・ 店も家屋も失った〈 八王子大空襲 〉
・ 焼け残った蔵と〈 戦後の暮らし 〉
4. 終わりに
1.かつて、お茶はどんな存在だった?

網代というと、静岡県伊豆半島の網代が有名ですが
我が家は、現在の東京都あきる野市の網代から八王子へ出てきました。
〈 重要輸出品 〉
鎌倉時代以降、薬としても大切に扱われてきた日本のお茶。
幕末の資料によれば、最高級の抹茶は
現在の価格に換算して、 100g 40万円。
今では一般的な緑色のお茶(青製煎茶)も
当時は流通し始めたばかりで、100g 3千円ほど。
下級武士の年収が200万円といわれた時代ですから
お茶がどれほど高価なものだったか、想像がつきますね。
ところが、明治を迎え、お茶をとりまく状況が大きく変化します。
開国した日本に目をつけたのは、欧米などの列強諸国。
アヘン戦争の混乱によって中国の茶輸出が停滞したこともあり
日本のお茶に白羽の矢が立ったのです。
これにより、江戸末期までわずかな生産量だったお茶は
生糸に次ぎ、総輸出額の20%以上を稼ぎ出すまでに成長。
開国後の日本経済を支えました。
〈 八茶 〉
昔の茶には、柿や桑の葉のようなものが混じることもあり
政府は、貴重な外貨獲得品であった茶の品質を保つため
各地で品評会を開き、製法の指導にも乗り出します。
令和元年10月、展示会「狭山茶どころ東村山」が開催されました。
そのときに展示された明治19年製茶品評会の賞状に、審査員として
初代・網代五兵衛(あじろ ごへえ)の名が記されています。
狭山(埼玉県)の茶は、一旦東京に集めてから輸出されていましたが
明治中ごろになると、八王子の絹の道と呼ばれる街道を通って
横浜港へと運ぶルートが確立。
八王子を経由するこの茶は当時、八茶(はちちゃ)と称され
初代・五兵衛と弟の二代目・政信(まさのぶ)が
その商いに精を出しました。
港にアメリカ行きの船があれば大儲け。
船がなければ、二束三文で置いてくるしかなかったそう。
今のように通信環境が整っていない時代、
ほとんど博打(ばくち)に近い商売だったようです。
2.昔のお茶屋はどんな仕事をしていたの?

昭和11年、八王子は市政20周年を迎えます。
記念パレードでは、さまざまな企業が大八車(だいはちぐるま)を引き回し
網代茶舗は、えびす様が茶壺を抱える装飾を施しました。
〈 火入れ 〉
三代目・政治(まさじ)は、父・政信と輸出業に励みつつ
狭山や静岡など、各地の茶処から茶葉を仕入れては、
店の裏にあった工場で火入れ(乾燥)を行ないました。
今ほど保存技術が発達していなかった当時、
火入れによって茶の風味を際立たせるだけでなく
葉の水分量を減らし、長期保存できるようにしたのです。
店舗裏から茶工場までは、荷運び用のトロッコが敷かれ
近所の子どもたちのよい遊び場になっていたそうですが
戦争の色が濃くなってくると、鉄製品の供出運動が活発に。
トロッコの線路、お米を炊くお釜まで、すべて回収されてしまいました。
〈 茶袋 〉
今の茶袋は、保存性に優れたアルミ製が一般的ですが
昔は、袋そのものを一つひとつ手づくりしていました。
仕入れた和紙に、防腐・防湿のための渋(しぶ)を塗って裁断。
うどん粉(小麦粉)でつくった糊で袋状に貼り合わせてから
版木で刷った商標紙を貼りつけて、ようやく完成です。
できあがった紙袋にお茶っぱを詰め、こよりで結わえてお渡しするまで
現代の私たちからすると、気の遠くなるような作業ですね。
そうして手間ひまをかけてつくられたお茶も、戦時中は統制の対象に。
どの店でも一号・二号・三号という名前をつけて
それぞれ同じ価格で販売しなければなりませんでした。
今も店で使用している「網代園一号」「網代園二号」という茶銘は
この時代の名残です。
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3.戦争のなか、暮らしはどう変わった?

終戦直前の昭和20年8月2日未明、八王子大空襲が決行されます。
〈 八王子大空襲 〉
7月31日、日本全国の都市に空襲予告のビラがまかれ、
水戸・前橋など、12か所の地名のなかに八王子の文字がありました。
事前に予告されていたため、他の町から消防車が集まったものの
たった2時間の間に、本土空襲では3番目に多い1600トンの焼夷弾が落とされ
7万人が被災、市民1人あたり10個の焼夷弾が投下された計算になります。
店の敷地にも、3個の焼夷弾が落ちた跡があったそう。
自宅、茶工場などはすべて焼失してしまいましたが
3つの蔵だけが残りました。
消防団に所属していた三代目・政治(まさじ)は、
蔵の中を空にし、空襲後も2週間ほど扉を開けずにおきました。
たくさんの荷物を保管する蔵は、たとえ焼夷弾の直撃を免れても
周囲で発生する火事によって、内部へ熱がこもります。
辺りが鎮火した直後に蔵を開けてしまうと、急に酸素が流入し
再び火が出て、数日間はあちらこちらで延焼が続いたそうです。
〈 戦後の暮らし 〉
政治の機転により焼け残った蔵のなかで、家族は生活を始めます。
川口村(現在の八王子市川口町)には妻の実家があり、
必要な物資をリヤカーで運びながら、日々を過ごしました。
蔵にあったたくあんの樽は、周りが熱で焦げてしまいましたが
中央の部分だけは、なんとか食べることができたそうです。
食べるものがなかった時代、ご近所の方と分け合ったと聞きました。
政治は幸いにも徴兵されませんでしたので、
戦中・戦後の物のない時代を、たくましく生き抜きました。
お茶が不足し始めると、茶葉を詰めるために用意しておいた茶袋や
その原料の渋紙など、手元にあるものはとにかく何でも売ったとか。
お茶の中にお米を隠して運び、ヤミ屋のような商売もしていたようです。
ただ、いつ赤紙が届いても不思議ではないと覚悟していたのでしょう。
自分が出征したあと、どうすればよいかを指示する書付が残っています。
店主にとっては、優しい祖父のイメージしかないそうですが
きっと、想像もつかない苦難を乗り越えた人だったのでしょう。
4.終わりに

物にあふれ、豊かになった現代が
こうした歴史の地続きにあることを感じるとともに
忘れずに日々を過ごしたいと、改めて思います。
昔ばなしの続き、機会があればまたご笑覧いただけたら幸いです。
コラムでは、皆さまからのささいな疑問や
テーマのリクエストを受け付けております。
お茶に関するご質問・ご相談などがありましたら
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最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
ステキなお茶時間をお過ごしください。